糸満の自転車屋(3/3)
                                                                 top
BOY008.JPG - 49,203BYTES

 中学を出てからは,みんなは小さな穴から虫がはいだすように それぞれ違った道を歩み出すので、糸満とは ほとんど会うこともなくなった。 一人で歩いた、友達と歩いたおうかん、子供のころのおうかんには、くずれおちそうな戦争前の建物や むき出しの基礎が いくらか残っているだけで、両側にはたんぼが広がり いっちにほいっちに 電信柱を指折り数えながら やっとのことで、小さな食堂とか 食料品の倉庫とか 豆炭工場の一画にたどり着いた。 そこまでたどり着く途中に あの糸満の自転車屋が、ぽつんと見えているだけのことだった。 将来は、おうかんの両側は、びっしりと建物で埋まってしまうだろう、などと友達としゃべったこともあり、やがて来るあわただしい時代が、子供たちにも予感できた。

 糸満の自転車屋の前は、形のきれいな十字路で バスの停留所にもなっていた。 でも、街並はすぐそこに見えているし、街への入り口の踏み切りは それとわかるし、踏み切りの番小屋は もう駅の構内の一部で 切符売り場まで一続きである。停留所の看板は、いつもたっぷり泥をかぶって 田んぼの方へ傾いていた。 時々、何気なく時刻表を見ると 点々と黒っぽいゴミのような数字が読めたが,バスが止まって乗り降りする人をついぞ見たことがない。 いつもきまってバスは、もうもうと砂ぼこりを巻き上げて、山手の部落のほうへ消えてゆく。 汚い空気を吸うまいと のどを締め付けまゆをしかめながら、一呼吸休んでから足元の水路を飛び越え 空き地の方へ逃げてゆく。 目の前に広がる空き地は、通称タタラの広場と呼ばれていた。何でタタラというのか 当時はわからなかったが 意味は、製鉄所ということらしいのでなるほど 何か鉄工団地のようなものが 昔あったんだろうな。 さらに遠い記憶のなかにあるのは、灰色にすすけた3階建ての木造アパートが何棟もあって、ふらーと中庭にまぎれこむと見上げる空の中に 白っぽい洗濯ものが、あっちこっちいっぱい下がっていた光景である。

 大戦に敗れてしばらくの間、ここは外地から引き揚げてきた人々の 一時的な宿泊所になっていたらしい。 みんながこりにこりた敗北の日から 10年もたっていない俺が小学校に上がる頃は、建物はきれいに無くなりコンクリートの共同洗い場とか、建物の基礎だけが ところどころ白っぽく浮き上がり、そのあいだをぺんぺん草が 埋め尽くしていた、見るからに荒涼とした風景が残されていた。黙々と草を踏み分けてようやく 糸満の四つ角に通じる道路へ飛んででる。 道路をはさんで タタラの向かい側にでんぷん工場があった。 細長い角材が、こぶしが入るくらいの間かくで 並べられて簡単な仕切り塀がしてあり工場は、動いているのか止まっているのか、門扉を除いてあたり一面つる草が しっかりからんでいた。 ある年の秋、台風一過 すがすがしい気分であたりをながめると、糸満の自転車屋は残っているのにあのでんぷん工場だけが、きれいに屋根が吹き飛ばされて 板塀もひどく傾いていた。 あっちこっち見まわしてみても、澄み渡った空気と しっとりした田園風景の中で 台風の被害を目にしたのは、でんぷん工場だけだった。 それがきっかけかどうかわからないが,いつしかあの弱々しい建物の工場は 閉鎖され むきだしのコンクリートと鼻をつく くさいでんぷんのにおいだけが、いつまでも漂っていた。 朽ちるにまかせた残がいの間をすり抜けて、中に入り込んで予想どうりやなと思いながら 首をまわしてあたりをうろつき始めた。においがにおいだけに誰もここには近かない。コンクリートできた大きな井戸のふたやプールのような長細い漕が いくつも並んであり 底のほうには 白っぽいでんぷんの粉が、へばりついている。 機械らしいものは、すっかり持ち出され どうしようもない配管のたぐいだけが目につく。

 このあたりではでんぷんは、普通ジャガイモやさつまいもから作る。 おもしろ半分でやったことだが、おろし金を使ってジャガイモを小皿にすりおろし 水を入れ固形物を取り去ると底のほうに、ほうら、まぶしくらいの乳白色のものが、手品のようにあらわれてくる。 指でつまみあげて水分を除くと、まっしろいきめのこまかいさらさらした粉が残る、これがでんぷんらしい。通称、カタクリ粉とかいって もちつきのときはこれをたっぷり使い、まんじゅうやお菓子にもお化粧の粉のように時々付いていて、なくてはならないものだ。 でんぷん工場は、それからしばらく次の使い道や使い手が決まるまで ろくに相手にもされず ほったらかしにされていた。

inserted by FC2 system