長屋
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   この街には これといって 目だった産業はなく、これからますます増えるだろう子供たち、とりわけ農家の次男三男のための安心して継ぐべき息の永い家業もない。田畑や小川や道端の草木一本までもこれから生まれてくる多くの家族が、せっせと切り刻んでいくだろう。土地を買って小さな家を建てる、人々のこうした心根の流れは、都市近郊の風物すべてを押し流し始めていた。おとなたちは、子供の目から見てよく働いているように見えた、実際はそれほどでもないのだろうが。どこの家でもどんな子でもそれなりに家の中で役割が ある程度決まっていて、毎日を、単調で苦しい労働から解放されることを夢見ながら 精一杯生きていくことが、あたりまえといえばあたりまえだった。 

 まだ家庭に水道というものはなく、古い農家の離れの小屋などにほこりをかぶって 今は眠っているかも知れない昔なつかしい五右衛門風呂なども、当時の多くの借家住まいの人々には 近所に頭を下げて借りるしかなかっただろう。4,5歳くらいの一時期 三日に一回くらいのペースで、親に連れられ街の風呂屋にかよったこともあった。
 今から思うと家はとても狭く、うちもご多分にもれず建て増しをしてその場しのぎの素人大工だが、となり近所のおいさんおばさんたちと 新しく広い風呂場や炊事場を造ったので、かつてコンクリで固めた古い炊事場は、もうすっかり物置きに変わって使えなくなっていた。よそのうちを調べてまわったわけじゃないが 自分の住んでいた長屋はそうだった。近所で井戸掘りも見たことがあるし、確かなことはわからないが 自分ちで井戸さらえをやっていたような記憶もある。
 家の裏側は、一間くらいの高さの板塀で囲み 外からは全く見えないようにして、塀のすぐ内側を鶏小屋と物置小屋にして、一日中陽の降り注ぐあいたところに ひもを張って洗濯ものを干していた。今か今かと、暗く寒い朝などは、いつも寝床でおんどりの鳴き声を聞いた。なぜか 子供にはわからない頑張り屋のおふくろは、いつも一番に もんぺ姿で土間に下りて朝ごはんの支度を始め、寒がりやのおやじは、まだふとんをかぶって丸くなっており、弟もどこかふとんのかたまりのなかに埋まっているはずだ。
 おれも寒いのは苦手だ、しかし台所は、外にいるのと ちっとも違わない、すきまだらけのあばら家のよう。「そこっ、しめときなさい。」おふくろが、さとすように言う。
 焼き物でできた仮置き型のかまどを使い、はがまでご飯をたいていた。下から新鮮な空気がいっぱい入っていくように 灰をきれいにかき出して道をつけ、燃えやすい木くずなどをなるべく下にして、 大きな枝木は上に積み、火種をしっかり守りながら下のほうから火勢をつける。
 寒い朝は、こうして暖をとりつつ煙と格闘しながら、火の番をして飯炊きの手伝いをしていた。丸太の上に寝巻き姿のままちょこんとすわって、じいっと火をみつめていた小さなおれを母は、可愛いと思ったのだろう「まきくべが、上手やね。」とほめてくれた。かまどのまわり特に天井は、すすでまっ黒、板塀から外へは、ブリキの煙突があるにはあったが 燃え始めは白い煙で台所は、いっぱいになり目にしむのでいつも姿勢が低くなる。
 家壁の横にはたくさんのまきを積みあげた、貧しくて古い習慣のいえはもっぱらまきを使い、そうでない比較的若い家族は、電気かプロパンガスだったかもしれん。ほかに家で使う燃料と言えば、風呂は石炭、ひちりんには豆炭、炭、のこくず、ニクロム線の電気コンロがあったかなあ。しばらくして、ボンベ式のプロパンガスコンロを使うようになった。
 里山の雑木林に生えている木とか、柱に使えないふしだらけの木とかが、牛が引く馬車に積まれて 定期的に各家庭まで売りにきていた。おやじが、良く乾燥した木を40センチくらいの長さに切りそろえ、さらに細かく斧で割り、おれたちはそれを拾って運んで積み上げた。職場でも家庭でもどこでも、人が集まって炊事をしたり暖をとったりするところには、いつもまきの匂いがあった。

 長屋住まいの人たちが 共同で使っていた井戸があったのを思い出した。井戸の端には、そうそう、四畳半くらいの部屋に、風呂があったことを。それぞれ家庭に内湯というものが出来てからは、共同風呂などというものは、いらなくなり子供たちの遊び場になったり 物置小屋になってしまった。
 とすると、記憶に残っている、うちの井戸掘りのあの光景は、長屋じゅうがひとつの世帯にひとつの井戸と言う事で 裏庭に盛んに増築して作った、炊事場の井戸だったんだろうか。井戸掘りなんておやじ一人で、出来るわけじゃなし、機械が有るわけじゃなし、職場の同僚とか近所の男たちが、寄り合って掘ったのだろう。おれんちと同じようなような家族が 7、8軒くらいは、あったと思うから、あのころはみんなお互い助け合って 井戸をこしらえていたようにみえた、実際はそうでもなっかたらしい。当時の井戸は、今のような石油掘削機風のボーリングマシンで 地下に鉄パイプをねじこんでいくようなもんじゃなくて、1メータ半ぐらいの丸い縦穴を人力だけで掘っていた。この丸い土壁の穴を補強するため、内側に大きなコンクリートの輪っかをはめ、落とし込んでゆく。この辺の平地であれば2,3メートルも掘ればたちまち水がにじみ出してくる。水と泥を根気よく汲み上げながら、できるだけ深く掘り下げ、水がきれいに澄むまで数日待つ。どう考えても衛生的とは言えないかもしれないが、生活用水としては十分使える。井戸も風呂も流しも台所のテーブルも、みんなおやじと近所の人が作ったものだから、そのお粗末さからか子供の目には、小さな工場のようにも見えた。台風が来て、倒れたり飛んだりすることもなく、雨もりもほとんどない、忘れがたく親しみがある。
 子供のころの手伝いとして大事なものに、風呂の水汲みがある。本当におおごとで、力と根気のいるつらい仕事だった。学校から帰ると、遊びに出る前に水汲みの仕事をかたづけておかなくっちゃ、おふくろの機嫌も悪い。風呂は、木おけでたき口は、鉄を芯がねにして瀬戸物をかぶせたホーロー引きじゃなかったかなと思う。前の日に使った石炭や豆炭の燃えガラを引き出すために、たき口の底を受けている格子状の蓋を手を突っ込んで 中から引っ張りあげる。燃えガラや灰は、小さなスコップですくって裏の畑に捨てに行った。この畑をはさんで長屋よりもはるかに立派なコンクリート造りの堆肥小屋がある。この小屋の壁の根っこをゴミ捨て場にして時々燃やしていた。
 井戸から風呂おけまでの間に台所の流しがあり、そこを竹のパイプでつなぐ。竹のふしをくりぬいて作った3メータくらいのパイプの一方を、風呂場のいた壁にあけた穴にさしこみ、おけのふちにあずけて、反対側の口はポンプの出口にはめこみ、これで準備完了。手押しポンプの位置は、高いところにあり、鉄棒か何かにぶら下がるかのようにして、いっちにいさんと声を出し数をかぞえながらポンプをついた。一回に汲み出す水の量は、洗面器5分の1くらい、ポンプのハンドルは、決して軽いもんじゃない。遊びざかりのこどもにとってはほんと、時間と労力をむしりとられてしもうて、苦痛以外のなにものでもない。よく、テレビの悲惨ドキュメンタリー番組で、アジア、アフリカ、南米の雨の少ない半砂漠のような場所で暮らす貧しい人々の生活が、紹介されることがある。そのなかで、女こどもの水汲み労働と称して、何時間もかけて悪路を歩くというのがある、そんなつらさに似たことをちょっぴり経験した。弟がそばにいる時は、50回ぐらいづつでポンプつきを交代した。普段あんまり遊ばないやつの家であっても、風呂の水汲みを手伝ってやったりすると、その日その家のおやつとして、かごに入れて天井から吊るしてある、よもぎ団子のふかしたやつを、たらふく食わせてもらったことが、一度ある。あまりにも遠慮なく 残り少ない団子を ぱく付くもんだから そいつ血相変えて 制止してた、すまなかったな。

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